頑張ってもダメ?:人間の能力は遺伝子で決まっているのか

朝日新聞の日曜朝刊に,茶会運動という保守的な運動が反オバマという現在のアメリカの政治の底流にあるという記事に興味をひかれて,それについて,「茶会運動という嫌税の伝統: 反オバマの流れとアメリカ国民の気質」なんてタイトルで,税金・政府・個人・市場ということをからめた記事を書こうと思ったのですが,政府と自分の関係をどう捉えるかという問題なので,書きたいことは結構深いことになり,やっかいかなということで別の機会にまわすことにしました.

で,久しぶりに藤沢数希さんのブログをのぞいてみました.この人のブログについては以前,高学歴女性のことを記事
にしたとき
に参考にさせてもらいました.他にも,床屋談義を話題にした記事でもリード記事として参考にさせてもらいました.世間的に成功したらしく,頭もよさそうであり,ネットの世界でのオピニオン・リーダーまでいかなくても信奉者・ファンの類は多いようです.ときに過激な論調も記事の特徴です.書き方はとても,紳士的ですが・・・

さて,9月27日づけの記事は,橘玲著「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」を読んでの記事になってました.この本を私自身は読んでいないのですが,この本の自己啓発本やセミナーへの批判の紹介から入って,

答えは「人間の能力というのは遺伝的に大方決まっている」だ。
橘玲は一卵性双生児の研究や、様々な教育実験の研究を持ち出し、人間の能力のどれだけ多くの部分が遺伝子で決まってしまい、環境要因のほとんども思春期までの間の子供同士の人間関係でほとんど決まってしまうことを説明する。
これは僕の経験とも一致するし、周りを見渡してみても非常に説得力がある。


と書いています.これは,一部の人たちはウンウンとうなずくだろうし,別の人たちは嫌悪感を覚えるかもしれません.私自身は,これまでの人生で,「ウンウン」と「嫌悪感」の両方をいったりきたりしてきた人間です.(だから今回の記事を書こうと思いました.)

藤沢氏はさらに,

実際に学術研究の世界では「犯罪者の子供は統計的に犯罪者になりやすい」とか「殺人犯のような精神異常の人間は脳の一部に障害を持っている」だとか普通に語られている。
最近は親の収入によって子供の学力が決まってくるというような研究がマスコミで話題になったが、実際のところは収入の低い親は能力が低く、それゆえに低い能力が子供に遺伝する確率が高いかもしれないのだ。

と刺激的な書いています.最後のところで,親の収入と子供の学力の相関の背後の関係を,親の学習能力と子供の学習能力の因果関係とみなす愚を犯しているのは明らかです.親の年収が低いために,塾その他の高度学習機会や高校・大学への就学機会が子供から奪われてしまう現実が,この10年間の格差社会の進行で深化している現状に藤沢氏は鈍感です.さらに公的高等教育機関の学費の上昇や公的奨学金のファンドも相対的に先細りとかも知らないのでしょう.

藤沢氏は,続けて

しかしこういった本当のことはマスコミからは決して聞こえてくることはない。
なぜならそれは「政治的」に正しくないからだ。(中略)また能力の多くが遺伝的に決まるし、環境要因とて幼年期の子供同士の人間関係が大部分だとしたら、それは美しい教育の理念を全面否定してしまうことになりかねない。多くの人は醜い真実よりも、美しい嘘の方を好むし、それで何の問題もない。


としています.気になったのは,遺伝的な要因が大きく人間の能力を決めてしまっていることを,真実とか本当のことと,言い切っていることです.

私も,人間,どんな努力しても成功できない,初期の希望を実現できないなんてことは当然だと思っています.そして,努力が大切・努力こそ人生で成功する鍵・努力なくして成功なし,みたいな論調には猛烈な反発を覚えます.

大体,このブログでも以前ふれたと思いますが,エジソンの言葉とされる「天才は,1パーセントの才能と99パーセントの努力」を,天才だって努力しているんだ,努力の大切さが99パーセントで才能の大切さは1パーセント,みたいな勘違いをするのが日本人です.

もちろんエジソンの真意(大部分のアメリカ人も同意する解釈)は,どんなに努力したところで才能がなければ,天才という別次元(そして,大成功)はおぼつかないのだというものです.

遺伝とか遺伝子とかの役割を強調する人は,一人一人の個人の行動や生活・社会でのパフォーマンスまでも,遺伝で決まってしまうという,「運命論」に陥る可能性があるし,また読み手がそのように誤解する可能性があります.運命論は人を絶望に追いやります.あるいは,「お前はそこそこ生きろ」という人生訓を与えるにすぎません.

私は,能力というあいまいな言い方も,誤解を招く原因ではないかと思います.身体能力だけを取り出してみましょう.100メートル走のタイムと強く相関するのは,短距離を走るに適した限定した身体能力とスタートにすばやく反応できる神経系のパフォーマンスと,身体能力をフルに使えるメンタルの安定性でしょう.

ここで,注目すべきは,100メートル走のタイムという達成規準について,成功と一部身体能力の関係が限定的な形でほぼ確定的に成立するにすぎないということです.より複雑な達成規準,30代のうちに稼ぐ10年間の貨幣的収入という達成規準に代えたらどうでしょうか.対応する能力を限定したり,その「能力」を客観的に測るというのも馬鹿馬鹿しい話になってしまいます.

藤沢氏や橘玲氏が言及する「能力」の正体は,非常にあいまいもことしたものであることには十分注意する必要があります.そして,この「能力」と遺伝の関係を確定的とみなしてしまう人たちは,何のことはない,思い込みや成功の事実から「能力」の存在を遺伝と結び付けているのです.

私は,知能テストの類で測られるような限定的な知的能力,反復横とび他の身体的テストが測定する身体能力,といった一応客観的な達成規準から測定される能力と,遺伝の関係が,あるかもしれないと思います.

でも能力と遺伝の関係を問題にするとき,まだ問題があります.遺伝論者のみなさんは,一流の遺伝子の保有者でも,薬物依存やメタボでパフォーマンスを下げてしまう場合について,能力は「潜在的」にあるけれども現状で測るとダメなだけ.といって,潜在能力を持ち出すに決まっています.じゃあ,能力を測定可能な限定したものとしても,「能力」っていったい何?という,そもそも論まで話がもつれることになり,議論自体の意味が薄れてしまいます.

結局,冷静に遺伝論者さん達の言い分を分析すると,能力にしろパフォーマンスにしろ,現状追認する道具として遺伝が使われているだけということに気づきます.この手の,ヨタ話は,昔からあったもので,一般化される根拠は結構薄かったりするのです.もちろん,話の中で使われるさまざまな学術研究の結果は傾聴すべき事柄があるとはいえ,全体的な論調としては,常に眉に唾して聞くものでしょう.

私は,こうした議論を,努力マンセーという毒薬に対する解毒薬としての,別の毒薬であると考えることにしています.





"頑張ってもダメ?:人間の能力は遺伝子で決まっているのか" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント