相田みつをの「言葉」があれば文学はいらない人たち
私は,相田みつをが嫌いです.この人に対して私と同じように考えたり,感じたりする人は多いように思います.
以前,ある若い男性と世間話をしていて,「相田みつをが好きって奴で,仕事が出来る奴を知らないです」,「なんでもかんでも『人間だもの』で片付けてれば楽ですよね,出来ないやつには」とさんざんな言い方でした.
その人は,大変優秀で短時間でばりばり仕事をこなす.言い訳はしない.というタイプなので,相田みつを自身が弱く,さらに「弱い人間」同士が連携して,サボろうというのが許せんということらしいです.
太宰治が,その弱さや女々しさを文学にまで高めているのと対照的に,相田みつをの「言葉」は,仕事で失敗した後輩に居酒屋でもっともらしい慰めの言葉をかける「仕事の出来ない」先輩社員の言い草でしかないような気がします.
現実問題として,ダメ人間である先輩からかけられたやさしい言葉で救われる人間もいることでしょう.その言葉に無上の価値を見出す人間がいるかもしれません.さらには,その言葉は詩であり,文学であると,誉めそやす輩もいるわけです.
前日のブログで,文学の有用性について語ったとき,佐藤良明氏が用いた言葉「メディア時代の大衆思考の愚」の典型例として私が思い浮かべてしまったのが相田みつをでした.私が,このように言うのを聞いた相田みつをのファンは,「相田さんの言葉はすばらしい.感動します.だから,素晴らしい詩ではないのですか」と問い返すかもしれません.
それに対して,私はこう答えるでしょう.「詩などと呼べたものではないとは,あえて言いません.でも,優れた詩でないことは確かです.」そして,さらにこう問いかけるでしょう.「そもそも,あなたは,萩原朔太郎や西脇順三郎や中原中也といった真にすぐれた詩人の詩に親しんだことがあるのですか?」
ダメ人間ならば,誰でも簡単に相田みつをになることはできます.実際,居酒屋には相田みつをと同じレベルの救いの言葉を紡ぐ心優しき「詩人」があふれています.(注参照)しかし,誰もがダメ人間(かつすぐれた詩人・小説家)としての石川啄木や太宰治になれるわけではないのです.
相田みつをを批判することは,すぐれた文芸に親しむことなく,居酒屋の会話で満足し,安易な思考にとどまる大衆を批判することです.もっとも,批判された大衆にとっては,よけいなお世話,あるいは何様だ,といった反感を引き起こすものでしかないかもしれません.
それでも,批判することを抑えられないのは,すぐれた文芸というものを支えるのが,批評家などではなく,最終的には大衆だからです.一人一人の大衆は,自覚を持たないかもしれませんが,やはり文化の担い手であることに間違いはないのです.
つぎのようなたとえ話をすれば少しはわかりやすいかもしれません.市井の人の味覚が,完全にファストフードのみに反応するようになった世界があったとしましょう.ごく一部のグルメが高度な食文化を維持・発展できるかを想像してください.
注:相田みつをの「詩」が簡単に模倣・パロディ化できることは,インターネットのいろいろなサイトで実証済みです.
以前,ある若い男性と世間話をしていて,「相田みつをが好きって奴で,仕事が出来る奴を知らないです」,「なんでもかんでも『人間だもの』で片付けてれば楽ですよね,出来ないやつには」とさんざんな言い方でした.
その人は,大変優秀で短時間でばりばり仕事をこなす.言い訳はしない.というタイプなので,相田みつを自身が弱く,さらに「弱い人間」同士が連携して,サボろうというのが許せんということらしいです.
太宰治が,その弱さや女々しさを文学にまで高めているのと対照的に,相田みつをの「言葉」は,仕事で失敗した後輩に居酒屋でもっともらしい慰めの言葉をかける「仕事の出来ない」先輩社員の言い草でしかないような気がします.
現実問題として,ダメ人間である先輩からかけられたやさしい言葉で救われる人間もいることでしょう.その言葉に無上の価値を見出す人間がいるかもしれません.さらには,その言葉は詩であり,文学であると,誉めそやす輩もいるわけです.
前日のブログで,文学の有用性について語ったとき,佐藤良明氏が用いた言葉「メディア時代の大衆思考の愚」の典型例として私が思い浮かべてしまったのが相田みつをでした.私が,このように言うのを聞いた相田みつをのファンは,「相田さんの言葉はすばらしい.感動します.だから,素晴らしい詩ではないのですか」と問い返すかもしれません.
それに対して,私はこう答えるでしょう.「詩などと呼べたものではないとは,あえて言いません.でも,優れた詩でないことは確かです.」そして,さらにこう問いかけるでしょう.「そもそも,あなたは,萩原朔太郎や西脇順三郎や中原中也といった真にすぐれた詩人の詩に親しんだことがあるのですか?」
ダメ人間ならば,誰でも簡単に相田みつをになることはできます.実際,居酒屋には相田みつをと同じレベルの救いの言葉を紡ぐ心優しき「詩人」があふれています.(注参照)しかし,誰もがダメ人間(かつすぐれた詩人・小説家)としての石川啄木や太宰治になれるわけではないのです.
相田みつをを批判することは,すぐれた文芸に親しむことなく,居酒屋の会話で満足し,安易な思考にとどまる大衆を批判することです.もっとも,批判された大衆にとっては,よけいなお世話,あるいは何様だ,といった反感を引き起こすものでしかないかもしれません.
それでも,批判することを抑えられないのは,すぐれた文芸というものを支えるのが,批評家などではなく,最終的には大衆だからです.一人一人の大衆は,自覚を持たないかもしれませんが,やはり文化の担い手であることに間違いはないのです.
つぎのようなたとえ話をすれば少しはわかりやすいかもしれません.市井の人の味覚が,完全にファストフードのみに反応するようになった世界があったとしましょう.ごく一部のグルメが高度な食文化を維持・発展できるかを想像してください.
注:相田みつをの「詩」が簡単に模倣・パロディ化できることは,インターネットのいろいろなサイトで実証済みです.
この記事へのコメント
私が問題としているのは,頭を使っているか否か,という一点です.頭の良さは単一の尺度で測れないので,頭の良さを問題にしても仕方ありあません.当然,東京大学の卒業生で一流企業に勤める人にも頭を使わない人間はいます.(逆のパターンもありえます.)
最後に,句読点云々・個性は,おっしゃる通りですが,価値観の違いをたてに,過度の相対化を行うことには注意を払う必要があると思います.批評の弱体化,ひどい現状の追認につながるからです.(さじ加減は重要でしょうが.)
随分と、アグレッシブな会話されていますね・・・。
あなたが、相当、知性があり、知能も高い人間であることは、前も述べたよう認識しているのですが、敢えて、述べさせて頂ければ、あなたには、男性が、女性に求めている物が、欠けているのかもしれませんね・・・。(お子さんもいらっしゃるようなので、今更、女性として脚光を浴びることなど、どうでもいい事なのでしょうけれど・・・。)
惜しむべき点は、他人を批判した内容の記事でしか、脚光を浴びれない、あなたの文才でしょうか?
語らずとも、私を侮蔑する意図は、充分、感じられますが、私が、求める女性とは、あなたのような女性ではなく、以前も述べたよう、『西村知美』のような女性ですよ。
俺が、女性に求めるものとは、『安らぎ』なので・・・。
もともと訪問者が少ないブログです.自分の思索を深化・改善するのに役立てればと設けているコメント欄は,スパムブロック以外の制限を設けていなくてもコメントはほとんどつきません.そこでは,共通の趣味のごく一部の方との交流を除けば,記事内容に関する「一過性」のやりとりでしかなく,個人的な感情が介在することはないことは間違いありません.
確かに,これまでの人生で,「面白い」「刺激に富む」とは数限りなく言われましたが,「安らぐ」と言われたことは,一度たりともないですね.(ここ,笑うところです.)
「でっていう」
ですかね
別に嫌いではないのですが
つまりはどうでもいいということです
何なんでしょうね
何処の誰でありたいんでしょうね
あの色紙を書くことで
肯定も 否定もあって 構わない されどあなたの 手腕はどうか
否定から 生まれるものは なにもない 望まぬならば 触れずにおれば
氏を思い 尊ぶ人が 多いとは 共感しうる 人多い故
好まぬも 認めることも 聡明な 人の証と 我は思える
文章で 人の批評は 出来ぬこと わかっているが 敵意感じる
氏が何を 貴方に加害 したという 気に入らなけりゃ 無視すればいい
簡単に言えば,相田みつをの言葉が,つまるところ言葉の「ジャンクフード」であるということです.「ジャンクフードに罪はない」という言い方は無責任なのです.ジャンクフードをタバコ,ドラッグ他に置き換えて,「・・・そのものに罪はない」と相対化してみるときの(健全ならば感ずべき)違和感は重要です.
もちろん「ジャンクフード」がこの世から消えてしまうべきとまでは言いません.
知識だけの人って感じがします。ご自身の考えがすべてじゃないですよ。世の
中には貴方と違った視点で見る方も多いです。それを受け入れないあなたには
今後心の広がりや豊かさは望めないんじゃないでしょうか?まいいやどういっ
たところで貴方も私も見解の相違で交わることもないでしょうから・・・私は
相田みつをを師事していきます。だから私の所には来ないでください。きっと
あなたの眼には愚の骨頂のようにしか見えませんから
相田みつをの言葉に心酔する人たちを説得しようとかの意図は,この日記ブログにありません.もし仮にそういう人が読んだときには,「おせっかい」を超えたニュアンスをもつことは承知で書いています.
「毒」の作用・強さはさまざまですが,近代合理性にしろ,各種宗教にしろ,音楽にしろ,何事にも「毒」の要素があります.もちろん相田みつをの言葉にも.
そのことをきちんと意識することが大切です.
私自身の考えが「毒」を含むことは百も承知ですが,毒は使い方によっては薬にもなる,ということでご容赦ください.(良薬口に苦しという言葉もあります.)
「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」
だそうです。
なんて浅はかな言い草だろう、と思いました。
どじょうは金魚のまねなんかしません。
どじょうはただ生きてるだけで、金魚も生きているだけ。
どじょうが一所懸命に生きてるわけでもない。
金魚も美々しく着飾ってるわけでもなく、ただ遺伝子の設計のまま、生まれ、生きている
何の関係もない両者を、引きずり出し引き合わせて何を言いたいのか?
みつを野言い草を
「じゃがいもがアボカドのまねすることねんだよなぁ」
「新聞紙がファッション誌のまねすることねんだよなぁ」
などと言い換えてみると、内容のなさがよくわかります。
真似なんかしないし、比較する意味もない。薄っぺらな言葉だと思います。
みつをの言葉は直接表現じゃない。それは勿論です
人間を泥鰌と金魚にたとえている、らしい。
だからこそ野田さんのように人の好い方は、勝手に深読みして勝手に感動してしまう
みつをのなんのための比喩や修飾でしょうね
ストレートに表現をしたらバカにされる程度の内容だからではないですか
勝手に感動する方々のありさまは、小汚いすし屋に魚と寿司メシ持ち込んで、自分で握って自分で食べて、『寿司』の代金を丸々払って喜んでるようなものではないですか
「こういう所のが旨いんだ、寿司はよ」と。
『まともな寿司』と言うものを知らないから、喜べるのです
「金魚のまねをする泥鰌」とは、うすっぺらな人生哲学らしきものを有難げに飾り立てようとするみつを自身じゃないですかね
お邪魔しました
随分前ある雑誌で糸井重里さんと2,3人の方が対談なさっている中に相田みつをのことが書かれていました。
うろ覚えですが「さる高名な書道家に言わせると 相田みつをは詐欺師である・・・(笑)」
なにも 相田みつをサンや相田さんのファンに恨みは無いですよ。
ただ 相田さんもご自分の書や言葉を世の中に発表されて食べてこられたのですから いかなる批評をされようと仕方が無いことだと思うのです。
故に相田さんの日めくりカレンダーが書斎にかかっていようと お便所に掛けられていようと文句はいえないのです。
ただ野田首相がお使いになったとき 正直「こんな言葉を一国の首相がお使いになるようでは 日本も末期的だな」とがっかりしました。
酔っ払いが居酒屋で言う言葉、とは言いえていますね(笑)
庶民の反感をかった「ハトポッポ」などのお坊ちゃまとは違うというスタンスを表したかったのでしょう、わざわざ相田みつを引用し「庶民に迎合する言葉」を狙った野田首相「低姿勢を装ったタカ」だと強かさを感じます。
ちなみに私は文学には疎いのですが、室生犀星の詩には惹かれます。
日本語ってこんなにも美しかったのだ、とまるで光で紡がれたような言葉に感じ入ります。
「ドジョウが金魚・・・」まあ"Yes, we can!"と同じようなレベルの言葉でしょうか
上記の記事が面白く、相田みつをが気になって調べてたらたどり着いた。
簡単に見えるものが、本当に簡単なものだろうか。子供の落書きで構成された商業的な絵本は殆どないし、居酒屋の雑談だけを集めた映画やドラマはない。
相田みつをの前に、相田みつをらしい作品があったなら、それは無価値だろう。もしいなかったのなら、彼は先駆者である。
先駆者に敬意を払うくらいはしたらいいと思うが。
「嫌い」というのは感情の言葉。あるいは「好き」の裏返しだから、気になって仕方がないのだろうか。