割り切るということと割り切らないということ: 金子みすずの「ふしぎ」に感ずること
私が大好きな詩人に金子みすず(1903-1930)がいます。彼女の詩に「ふしぎ」という作品があります。
ふしぎ 金子みすず
わたしはふしぎでたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。
わたしはふしぎでたまらない、
青いくわのはたべている、
かいこが白くなることが。
わたしはふしぎでたまらない、
だれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
わたしはふしぎでたまらない、
たれにきいてもわらってて、
あたりまえだ、ということが。
この詩は、「割り切らない」ことの素敵さをみずみずしく表現したものです。
この詩を私の子供は大好きで,ときどき暗誦しています。
稲の種子(もみ)を植えれば、最終的には稲穂が垂れるまでに成長し、再び種子が得られます。人々は、その様子を数え切れないくらい目撃しているのです。でも、なぜ、あの小さな種籾から、稲が育って同じものが採れるのか。不思議です。
しかし、200年前、その不思議さを親にぶつける百姓の子供がいたとします。「当たり前でねえか。米ができんかったら,困るじゃろ.そげん下らんこと考えとる暇があったら、仕事、手伝わんかい」と,どやされたでしょう。
この親は、種籾 -> 苗 -> 稲穂 -> 種籾 のサイクルを、当たり前のことと割り切っているわけです。つまり、自分の頭の認識体系において、余計な問いを発する必要ない、かたがついた事柄だと、整理してしまっているわけです。
これに対して、上記サイクルを不思議だと思った百姓の子供は、自分の(幼い)認識体系の中で、解決済みというラベルを貼っていない状態にあります。つまり、割り切ろうとすると、余りが出てきてしまう・・・ そんな状態です.
割り切るということは、人間が生存するための一つの知恵です。でも、それは思考停止を選んだことでもあるのです。
数日前、「空がなぜ青いのか」を題材にブログ記事を書いたのですが、「簡単に言えば青い光しか通さないからですよ.」というコメントを、つけた方がいらっしゃいました。
その通りなのですが、親にどやされた上記の百姓の子供のような気持ちになりました。コメントをつけた方は、電磁気学、物理学一般について、もしかすると深い素養と持った上で、そのコメントを書かれたのかもしれません。ただ、そのコメントは、「青いものは、青い」と言っているにすぎません。せいぜい、太陽光が近似的に白色光として、空がある波長の光を選択するという「割り切り」です。
私が言いたかったことは、どんな些細なことについても「割り切らない」態度が、科学を進歩させたということなんです。
注:金子みすずは死後50年以上、つまり著作権の保護期間を経過しているために,詩をブログにのせました。金子みすずの全集を出しているJULA出版局は、著作権法の解釈を不当にねじまげて転載の許可を求めるようにしていますが、法的な根拠はまったくありません。保護期間の過ぎた作曲家の楽譜に対して「版面権」を盾に二次的な著作権を主張する、音楽出版社と同じで、困ったものです。もしかすると,現在,態度を悔い改めているかもしれませんが・・・
ふしぎ 金子みすず
わたしはふしぎでたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。
わたしはふしぎでたまらない、
青いくわのはたべている、
かいこが白くなることが。
わたしはふしぎでたまらない、
だれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
わたしはふしぎでたまらない、
たれにきいてもわらってて、
あたりまえだ、ということが。
この詩は、「割り切らない」ことの素敵さをみずみずしく表現したものです。
この詩を私の子供は大好きで,ときどき暗誦しています。
稲の種子(もみ)を植えれば、最終的には稲穂が垂れるまでに成長し、再び種子が得られます。人々は、その様子を数え切れないくらい目撃しているのです。でも、なぜ、あの小さな種籾から、稲が育って同じものが採れるのか。不思議です。
しかし、200年前、その不思議さを親にぶつける百姓の子供がいたとします。「当たり前でねえか。米ができんかったら,困るじゃろ.そげん下らんこと考えとる暇があったら、仕事、手伝わんかい」と,どやされたでしょう。
この親は、種籾 -> 苗 -> 稲穂 -> 種籾 のサイクルを、当たり前のことと割り切っているわけです。つまり、自分の頭の認識体系において、余計な問いを発する必要ない、かたがついた事柄だと、整理してしまっているわけです。
これに対して、上記サイクルを不思議だと思った百姓の子供は、自分の(幼い)認識体系の中で、解決済みというラベルを貼っていない状態にあります。つまり、割り切ろうとすると、余りが出てきてしまう・・・ そんな状態です.
割り切るということは、人間が生存するための一つの知恵です。でも、それは思考停止を選んだことでもあるのです。
数日前、「空がなぜ青いのか」を題材にブログ記事を書いたのですが、「簡単に言えば青い光しか通さないからですよ.」というコメントを、つけた方がいらっしゃいました。
その通りなのですが、親にどやされた上記の百姓の子供のような気持ちになりました。コメントをつけた方は、電磁気学、物理学一般について、もしかすると深い素養と持った上で、そのコメントを書かれたのかもしれません。ただ、そのコメントは、「青いものは、青い」と言っているにすぎません。せいぜい、太陽光が近似的に白色光として、空がある波長の光を選択するという「割り切り」です。
私が言いたかったことは、どんな些細なことについても「割り切らない」態度が、科学を進歩させたということなんです。
注:金子みすずは死後50年以上、つまり著作権の保護期間を経過しているために,詩をブログにのせました。金子みすずの全集を出しているJULA出版局は、著作権法の解釈を不当にねじまげて転載の許可を求めるようにしていますが、法的な根拠はまったくありません。保護期間の過ぎた作曲家の楽譜に対して「版面権」を盾に二次的な著作権を主張する、音楽出版社と同じで、困ったものです。もしかすると,現在,態度を悔い改めているかもしれませんが・・・
この記事へのコメント
誤解をおそれずに言えば,科学的な見方を排するのは,逆に人間の本性に反すると思います.(科学の名の下に金子みすずが詩で表すような本性として不思議に思う心を抑制してしまうことが問題なのです.)
金子みすずの詩には,ふしぎと思う心を常に抱くみすず自身の孤独感が最後にあるのですが,金子みすずのように本当に稀有なまでに感受性のある人は,科学だからダメとか,神をないがいしろにするからダメといった狭い見方はしないと思います.